ひょうきん族、いいとも、スマスマ‥‥「新しさ」でバラエティーを改革した名物プロデューサーの功績~佐藤義和さんを偲んで~ 《前編》
◆【昼の改革】
『THE MANZAI』で人気者となった若い芸人たちを起用して作った『笑ってる場合ですよ!』でもタブーを破った。
ワイドショー一色の昼12時に芸人のバラエティー。しかも放送は局ではなく、ブティックや飲食店が入ったビルの新宿アルタスタジオ。
「子どもから若者まで大勢観に来たし、番組は寝坊した大学生や水商売のおねえちゃんとか昼にテレビを観なかった人たちを開拓できた」
FMラジオ好調もあって70年代後半にテレビ離れした若者が、テレビに戻ってき始めた。同枠での新宿アルタでの生放送は長寿番組『笑っていいとも!』へと続くが、佐藤さんたち5人の「ひょうきんディレクターズ」は“土8戦争”と呼ばれる『8時だヨ!全員集合』との笑いの闘いも同時進行させる。
◆【ひょうきん族】
81年、特番から『オレたちひょうきん族』は始まった。
「私は『ドリフが舞台の生放送なら、こっちはコントを編集で繋いで作ろう』とディレクターたちとアイデアを出し合いました。映画や歌番組のパロディが主でした」
ここでもタブーを破る。コント収録で芸人がアドリブの台詞を言った時だ。
「喜劇役者と違って漫才師は『本番は台本と違うこと言うぞ』と芸人気質が働くから、アドリブをやったら、カメラさんと音声さんが笑っちゃって、笑い声が録音されたんですよ。スタッフは絶対笑ったらいけないから、普通は撮り直すけど、私は『スタッフの笑い声っていいじゃん!』と閃いた」
それからはアドリブOK。さらにスタッフも笑ってOK。スタッフの笑い声を録音するマイクを何本も用意したという。
『ひょうきん族』以降、ADが笑い声入りのバラエティーが氾濫した。
(おもしろくない時もスタッフがわざとらしく笑う番組も増えてしまったが‥‥)
翌82年には『8時だヨ!全員集合』を視聴率で抜く。自身もゲーハー佐藤の名で「ひょうきんディレクターズ」として「ひょうきんベストテン」コーナーに登場。
番組は89年に終了するが、ディレクターたちで「やめよう」と決めたという。
「パロディの笑いは日本では価値が低かったけど、『ひょうきん』で上がったから、番組の役割は終わったのかな」と、プライベートな時に話してくれた時があった。
漫才ブームのメンバーにつづき、たけし、さんま、片岡鶴太郎、山田邦子、赤信号と、『ひょうきん族』で人気者になった芸人たちが他局でも大活躍した。
佐藤さんはプロデューサーとしても新しい番組と、新しい芸人を見出していく。(後編へ)
【著者プロフィール】
松野大介(まつの・だいすけ)
1985年に『ライオンのいただきます』でタレントデビュー。その後『夕やけニャンニャン』『ABブラザーズのオールナイトニッポン』等出演多数。95年に文學界新人賞候補になり、同年小説デビュー。著書に『芸人失格』(幻冬舎)『バスルーム』(KKベストセラーズ)『三谷幸喜 創作を語る』(共著/講談社)等多数。沖縄在住。作家、ラジオパーソナリティー、文章講座講師を務める。
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